メンバー便り

奄美の地図④-地図作成の地域差

前回まで、戦前期の奄美に関する地形図の作成状況と現存状況について、国会図書館での調査をもとに記事を書いた。

ここで、奄美の旧版地形図探しは一段落となるが、奄美の地形図に関する謎は、次から次へと浮かんでくる。

新たな謎は、地形図作成の地域差である。何のことかと言えば、大正期に奄美大島全域で作成された縮尺50,000分の1の地形図(図上の1cm=実際の500m 以下、5万分1地形図)に対して、それより大縮尺で詳細な情報を記す縮尺25,000分の1の地形図(図上の1cm=実際の250m 以下、2.5万分1地形図)は、南西部でのみ作成されている点である(表)。

表.奄美大島における25,000分1地形図(初版)の測量・発行年

※ 国土地理院図歴より作成

図歴を見ると、奄美大島で作成されている19葉の2.5万分1地形図のうち、宇検・湯湾・役勝(現図名、住用)・西古見・久慈(現図名、奄美久慈)・嘉徳(現図名、山間)・瀬武・古仁屋・節子・風崎(現図名、与路)・秋徳の11葉が、大正8(1919)年または翌9年(役勝のみ)に作成されている(図破線部)のに対して、名瀬を含む北東部は、戦後の昭和30年代に測量・発行されているのである。一般的には、まず奄美大島の政治・経済的中心地である名瀬で作成された後、周辺部の地形図が作成されるように思うのだが、どうもそうでもないようだ。

地形図作成の地域差が生じる理由は一体何なのだろうか? 作成するのであれば、両図とも大島全域を対象に作れば良いものを、何故、南西部だけ詳細な地形図が作成されたのか?

図.奄美大島における地形図の図名と収録範囲

奄美大島南西部の2.5万分1地形図を作成するために測量が行われた大正8(1919)年は、5万分1地形図作成のための測量を行った年でもある。国の作成する地形図は、用事も無く作成されはしないので、何か理由があるはずである。そこで、大正8年という年を当時の世界情勢のなかに位置付けて考えてみる。

1919年は、第1次世界大戦の講和会議がフランスのパリで行われ、ヴェルサイユ条約の調印をもって戦争が終結した年である。この当時、日本の陸軍は奄美大島のうち加計呂麻島との間に位置する大島海峡の要塞化を検討しており、大正9年8月には、陸軍築城部奄美大島支部が東方村古仁屋(現、瀬戸内町古仁屋)に設置されている(『瀬戸内町誌』)。

当地が選ばれた理由には、明治24(1891)年に古仁屋の北の久慈村へ海軍の燃料補給用石炭庫と給水タンクが設置されたことと関連すると推察され、要塞建設以前から大島海峡は軍事上の要地と目されていた。大正10年には大島海峡の東口(皆津崎・安脚場)と西口(西古見・実久)において砲台の建設に着工したが、大正11年のワシントン海軍軍縮会議における太平洋防備制限条約の締結に伴い、建設は中止される。その後も要塞の建設は継続され、大正12年には古仁屋に奄美大島要塞司令部が開庁した。場所は、現在の古仁屋高校の校地に相当する。2.5万分1地形図が作成された範囲は、これらの要塞の諸施設が建設された地点を含み、5万分1地形図で確認された「奄美大島要塞近傍」の表記も、こうした奄美大島南西部の要塞化に関係すると考えられる。

ここまでが一つ目の謎である。まだ、次の謎が残されている。

参考文献 瀬戸内町町誌編集委員会編『瀬戸内町誌』歴史編,瀬戸内町,2007.

(鹿児島大学法文学部 小林善仁)